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旧白州邸から学ぶもの。2008年9月28日…白州次郎と山形(その2)
 鳥海山では9月28日に初冠雪が観測されました。平年より11日早いとのことです。日照が少ない日が続き急に寒くなっていますので、体調を崩さないよう留意しましょう。
 さて、前回は白州次郎の業績や山形市蔵王に残る旧別荘などをご紹介しましたが、その人柄や普段の生活スタイルはどうだったのでしょう。そして彼のポリシーの根底にあるものとは・・・?
 それを少しでも知るためには、彼の家を訪ねてみるのが近道と考えました。山形からちょっとワープして、東京は町田市の旧白州邸を覗いてみることにしましょう。旧白州邸のある町田市能ヶ谷は起伏に富む地で、緑が多く石垣の続く閑静な郊外という感じです。白州次郎は財界の御曹司だった人ですので、旧白州邸は洒落た、あるいは重厚な洋館だろうかというイメージを持っていたのですが、訪ねてみると驚かされます。それは茅葺屋根の家でした。今や山形でも茅葺屋根の家は中々見つかりませんね。
 ここで、奥様の白州正子に登場してもらいます。白州正子はエッセィストでしたが、芸術や和の文化に造詣が深く、美術雑誌や「和」について書かれた本に、その家と共に度々登場しています。白州次郎が亡くなった後も正子夫人はずっとこの家に住んだので、二人の家はむしろ「白州正子の家」として知られていました。白州正子は、明治の元勲の一人である薩摩出身の樺山資紀(かばやますけのり)の孫娘として生まれ、アメリカに留学しています。白州次郎とは京都で知り合い意気投合して結婚しました。その後、太平洋戦争が始まりますが、互いの留学経験から米英の懐を知り抜いている二人が警鐘を鳴らしても日本の開戦は誰にも止められません。二人は都心が爆撃されて火の海になるにちがいないと思っていましたので、当時はまだ山際に農家が点在するだけの田園地帯に、使われなくなった一軒を買い求め移り住んだのです。そして戦禍を免れました。いわば、東京の中での疎開ですね。そして終戦後も二人はこの家に住み続けました。二人とも故人となり、この旧白州邸は一般公開されています。
 日本人の理想的な生活とは里山での生活であると言われるように、茅葺屋根で涼しく風通しのよい母屋と小屋、縁側に座り鶏をのびのびと放し飼いにできるような庭、そして木の実やきのこが採れる小さな裏山とで構成されるこの家を離れる必要はなかったのです。好んで散策したという裏山は「鈴鹿峠」と名づけられています。白州正子の著書のひとつに「西行」という本がありますが、出家する前は官僚武士だった西行が世を憂いながら身を引き伊勢に下る鈴鹿越えのときに詠んだ「鈴鹿山 うき世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらん」にちなんだものでしょうか。茅葺屋根の家から白州次郎が愛車のポルシェに乗ってさっそうと出てくるというのも面白いですね。
旧白州邸の風景
 母屋の中に入ってまた驚かされるのは、農家だった頃は土間だったスペースです。わら打ち仕事などに使われていたと思われる土間は、床暖房付きのタイル張りに改造され応接セットを置いた居間になっていました。
  夏はひんやりして涼しく、冬は暖炉に火を炊くと共に温められた湯をタイルの下に埋め込まれた導管に通すのです。当時の留学経験から学んだ知恵でしょう。和室の中心には囲炉裏があり、京都の町屋風に畳の周りを板張りで囲んであります。そこにお気に入りの調度や美術品を並べて楽しみました。この家にはデザイナーの三宅一生氏など文化人が多く出入りし、芸術談義をするサロンにもなっていたようです。能楽にも詳しかった正子夫人が黒川能を観覧しに当県を訪れたときは大雪で車を通すための除雪がたいへんだったとか。
 変えるべきことは果敢に試行し改善するが、変えないほうがよいことは変えない。白州夫妻のライフスタイルです。
  かつては山形でも一般的だった里山の暮らし、町屋の暮らし。エコライフが盛んに取り上げられていますが、日本は高度成長期からの転換が中々うまくいかないようです。食料自給率が低下し、食の安全も問題になっている状況。今何をすべきかを、旧白州邸は教えてくれているようです。
(R.M.記)