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山形アラカルト
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紅葉が見事です。2008年10月30日・・・峠の話2題(その1)
 今年は夏が去った後に急に寒くなり、押入れからストーブまで出したのに、また暑くなるなど気温の変化が激しかったですね。体調を整えるのにちょっと苦労した方も多かったのではないでしょうか。
  でも、そのように寒暖の差が大きいほど、樹木は鮮やかに色づきます。赤や黄色、緑とのコントラストがくっきりと・・・今年の紅葉は本当にきれいです。
  行楽の盛んな季節に、高騰していたガソリンも少し安くなり、いつもは近くで済ませていた観光ドライブも、ちょっと峠を越えて遠出してみようかと。では、県内にある峠の話を2題。

<その1> 板谷峠
 米沢市から東南方向の福島市へ抜ける県境の峠です。ここに、大野九郎兵衛の供養碑というものが建っています。話は元禄時代にさかのぼります。元禄時代というと、あの大事件、赤穂浪士の討ち入りがありました。これを題材とした「忠臣蔵」という作品は日本人の心に深く浸透していますね。大野九郎兵衛は赤穂の浪人だったのです。
  しかし、吉良邸に討ち入った四十七士の中に彼はいません。彼は勘定方の家老でした。浅野家の大蔵官僚というわけです。いかにもそれらしい合理主義者で、主君が切腹し浅野家が断絶すると、さっと身をひるがえし再仕官のために全国行脚していた不忠義者だとされていました。しかし、彼は重大な密命を抱えて板谷峠にいたのです。
  浪士達が江戸の吉良邸への討ち入りに成功するか否かには大きなリスクがありました。吉良上野介がはたして邸内にいるかどうか、命を賭して討ち入っても、すでに避難された後なら目的は水泡に帰します。では、避難先は何処でしょうか。それは米沢の上杉家以外にないと考えられました。
  吉良上野介は徳川の旗本でしたから、関が原の合戦で西軍についたため減封されたとはいえ関東管領として格式の高い上杉家の姫を妻にしていたのです。二人の長男の綱憲は逆に上杉家の養子に入り当主となり、今度はその子が吉良家の養子となり当主に・・・吉良家と上杉家は、このように深い関係にありました。すでに上杉家の主君である息子の元へ身を寄せるのは必定なりと。そして、江戸から米沢への移動ルートは板谷峠を越えるしかないとされました。

左 大野九郎兵衛の供養碑 右 鉄路工事の最大の難所だった板谷峠は鉄道ファンに人気の場所でもあります。
 大野九郎兵衛はその刺客として、じっと息をひそめていたのです。おそらく福島県側の三春あたりから板谷峠にかけて、江戸との連携を支える女忍者や、草(事前にその地に根付いて生活しながら有事に備えるエージェント)達を配し、目立たないように互いに距離を置き、九郎兵衛自身もその地にとけこんでいたのではないかと思われます。身なりを農民化させ、地元の人達と共に田植えや収穫に汗を流し、にこやかに談笑する姿があったのかもしれません。吉良邸での討ち入り成功の知らせが入った後、彼は峠近くの馬場平という場所で切腹し、その生涯を閉じました。

(R.M 記)